新選組版「今日は何の日」です。
1865(元治2)年 2月23日
この日、新選組総長 山南敬助が
壬生の前川邸で切腹しました。
子母沢 寛著
『新選組始末記』
を題材にした
ドラマなどでもおなじみの話ですね。
永倉新八著の
『新撰組顛末記』
も含めてその話を要約すると。。。
その頃、近藤は副長の土方の考えを重視し、
総長である山南をなにかと疎んじていました。
もともと勤王思想であった山南は
新選組のあり方に疑問を持つようになっていました。
何事にも反対を唱える山南に
近藤もいちいちその意見を受け入れることが
できなくなっていたのです。
その頃新しく江戸からやって来た伊東甲子太郎は
勤王攘夷派で二人は意気投合し、
山南は彼の論に次第に心酔していくようになりました。
それをまた近藤はよくは思わず。。。
山南には機会があれば脱退して勤王運動に尽くそう
という伊東との暗黙の了解があり、
何かのきっかけでそれが行動に移されたようです。
一説にはちょうど隊士が増え、手狭になった壬生屯所から
西本願寺へ移転する話が浮上し、またも反対する
山南の意見を受け入れようとしない近藤に対して、
「こんな局長とは行動を共にできない!!」
と脱走、沖田総司が大津に行って連れ戻した
とあります。
壬生に戻った山南を伊東と永倉が訪ね
再び脱走をすすめますが、
山南は壬生に戻ったときからすでに覚悟を決め
真摯に沙汰を受け入れ、幹部達との水杯の後
沖田の介錯で見事に果てたということです。
とても有名な話ですが、
実は事の真相は はっきりとわかっていません。
最近の研究では
元治元年1月に山南は命にかかわる事件に遭遇し
その後、通常の隊務にもつけない有様になったともいいます。
それが原因で池田屋事件にも参加できず、
日を追うごとに諸々の出来事がつのり、
何かのきっかけで脱走、または脱走扱いにされ
切腹に至ったという説もあります。
(参考/菊地 明著
『沖田総司伝私記』)
どちらにしても想像の域は出ないようです。
しかし
2月23日に山南が切腹し
光縁寺に埋葬されたことは事実です。
2月23日。
この日は奇しくも
「浪士隊が江戸から期待を抱いて上洛し、京へ到着した」
という彼らにとっては特別な日でもありました。
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不思議ですね
伊藤さんを斬ったときとは大違いで、剣豪とはいえ沖田さん一人で追わせてるし。
1対複数が基本の新撰組。
あの土方さんが本気で嫌ったら局長の言葉だろうと一人で追わせるようなマネはしないとおもうんだけどなぁ。
「春の南や・・」を読むとねぇ。
山南さんの人柄を読んでもいわゆる仲違い説は信じたくないですね。
ていうか、自分のブログでかけばよかったな(^^;)