多摩人(たまびと)漫遊記 〜新選組のチョッと話〜


人生大半を新選組に費やす筆者が、史跡巡りや新選組で得た様々な事柄を綴る。他趣味の旅やペット達を紹介。
Profile ルンちゃんです♪

(写真=幕府のイヌ?)
新選組大好き歴が永〜いだけの私ですが、どうぞいっしょにお話しましょう! 相互リンクもOKです!



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家茂薨去の日

新選組の前身である浪士組は、

229年ぶりに上洛する将軍の警護という目的を持って

1863(文久3)年、中仙道を京へ向け旅立ちました。






その上洛をした将軍というのが

第14代徳川家茂
です。






というわけで、本日は広い意味での

新選組版「今日は何の日?」です。






1858(安政5)年、

第13代将軍徳川家定が死去し、

将軍となった家茂は、この時13歳。






「将軍後見職」がついていたとはいえ、

齢(よわい)13で、

幕末動乱期の日本を背負わされた家茂は

お気の毒としかいいようがありません。






それでも、心優しき少年は

体が弱いながらも文武両道に励み

良き将軍になろうと努力を怠らなかったようです。





その姿が家臣たちの心を動かし、

信望の厚い将軍へと成長していきました。






内憂外患の時代、

若いながらも聡明な態度で

何事も切りぬけていた家茂でしたが、

1866(慶応2)年
、第2次長州征伐の際

大坂城で病に倒れます。






知らせを聞いた孝明天皇は、

典薬寮の医師2人を大坂へ派遣します。

また江戸からは、

天璋院や和宮の侍医である

大膳亮弘玄院らが急遽大阪へ出向きます。





しかし治療の甲斐なく、

家茂は7月20日薨去しました。

享年21歳。





死因は脚気とも、

虫歯による敗血症とも言われているようです。

(彼は大の甘党でした。なんと虫歯が30本!^^;)






1862(文久2)年の

公武合体のための和宮との結婚は

政略結婚ではありましたが、

二人はとても仲の良い夫婦だったといわれています。






第2次長州征伐の際にも、

家茂が西国からのみやげは何が希望かと

和宮に問うたところ、宮は「西陣織」を所望しました。






家茂が大阪で急死したとき、

家茂が彼女のために手に入れていた西陣織が

形見として江戸に届きます。






その西陣織を見て

「空蝉の唐織り衣なにかせん あやも錦も君ありてこそ」


と宮が和歌を詠んだ話は有名ですよね。






そしてもう一つのエピソード




1958(昭和33)年から1960(昭和35)年にかけて、

増上寺の徳川将軍家墓地改葬が行われました。





そのとき、遺骨の調査も行われたのですが、

和宮の墓の中から、

長袴の直垂に立鳥帽子をつけた

若い男子の写真が見つかったそうです。






しかし湿板写真だったため、

翌日には表面の画像は消え、

ガラス板が残っただけでした。






この写真が誰だったのか、

それは不明です。

でも、家茂だったと思いたいですよね。






家茂薨去(と、後の孝明天皇崩御)により、

日本は一気に江戸幕府幕引きの舞台へと転換します。





家茂薨去の知らせに、

徳川の家臣たちは驚きと、

今後の不安を抱かずにはいられなかったでしょう。






そして新選組の隊士たちもまた、

先の見えない己の行く末を

漠然と感じ始めていたことと思われます。






家茂の心温まるエピソードは、こちらが詳しいです^^
⇒ 徳川家茂 Wikipedia

珍しい家茂の肖像画はこちら
⇒ 明治17年 家茂画






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  • [2008/07/20/11:49][ ↑ ][ ↓ ]

  • 会津藩士 柴司

    新選組版「今日は何の日」です。

    といっても会津藩士の話になりますけど。





    京都金戒光明寺(黒谷)には、幕末の頃

    京都守護職の任を受けた藩主 松平容保に従い、

    遠い会津から京へと赴き、

    志半ばで異国の地で果てた会津藩士たちの墓があります。





    そのひとつ 柴司(しば つかさ)の墓。

    彼の死は思いがけないものでした。





    彼が亡くなったのは1864(元治元)年6月12日のこと。

    池田屋事件から数日経った日の出来事です。





    6月5日の池田屋事件以降、

    京都では長州派浪士の残党を捕らえるべく、

    幕府方の探索が激しさを増していました。





    東山にある料亭「明保野」に

    長州人が多数潜伏しているとの報告を受け、

    武田観柳斎率いる新選組
    と、

    その応援部隊として同行していた

    会津藩士ら5名
    が料亭にやってきました。





    出入口を固め家屋に突入し

    一通り捜索しましたが浪士たちは見当たらず、

    庭へと移動したとき、離れ座敷にいた武士が

    逃亡するのを発見したのです。





    すぐさま武田観柳斎が「逃がすな」と命じると、

    会津藩士の柴司が追いかけ、垣根に追い詰めました。

    その武士が抜刀したので柴は槍で相手を突き、逃亡を防いだのです。





    ところが相手が「土佐藩の麻田時太郎である」

    と名乗ったことから、この悲劇は始まります。





    土佐藩と会津藩は当時 公武合体を志す、

    いわば同志の間柄。





    その二つの藩の間で刃傷沙汰があったことは、

    誤解とはいえ友好関係にヒビが入りかねません。





    すぐさま会津藩公用方が、

    謝罪のため土佐藩邸を訪れましたが断られ、

    それでも会津藩は次の日も土佐藩へ医者を差し向けました。





    しかし、このとき既に麻田は、不逞浪士に間違えられた上、

    傷を負わされたことを恥じて自刃して果てていたようです。






    土佐藩邸での状況を察知した会津藩は

    ふたつの藩の今後の関係を懸念し、

    苦渋の選択を迫られることとなります。





    このままなにもせず うやむやにするか。

    それとも柴に責任を取らせるか。





    結局、柴司は

    兄である外三郎の介錯により切腹しました。





    新選組の方では、わずかな誤解から

    このような最悪の事態になるとは想像もせず、

    13日の柴司の葬儀には、土方歳三、井上源三郎、

    武田観柳斎、河合耆三郎、浅田藤太郎らが参列し、

    声をあげて彼の死を悲しんだといわれています。





    この事件の当事者である 武田観柳斎は

    彼の死に際して、追悼の和歌を詠んでいます。




    我もおなし 台(うてな)やとはんゆくすえは 同し御国にあふよしもかな





    柴司、

    享年21歳。


    彼の墓は今も金戒光明寺にあります。





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  • [2008/06/12/11:32][ ↑ ][ ↓ ]

  • 局長の本当の命日とは?



    新選組局長 近藤勇


    命日は慶応4年4月25日です。皆さんご存知ですよね。




    でも、それは旧暦でのこと。




    今の新暦のカレンダーとは多少のズレがあるのです。

    この旧暦の4月25日を新暦に換算すると

    1868年5月17日。





    つまり今日なんですね。





    その出来事の季節を感じたいのなら、

    旧暦を新暦に換算してみるといいですよ。





    まだ若干の寒さが残る4月25日ではなく、

    初夏を感じるこの季節に

    近藤勇
    は逝ってしまったんですね。





    ちなみに新暦の4月25日は

    旧暦に戻すと慶応4年4月3日。





    実はこの旧暦の4月3日は、

    近藤勇が流山で

    東山道軍に取り囲まれた日だったりします。





    あの流山での土方歳三との離別です。





    つまり新暦の4月25日以降この5月17日まで、

    近藤勇は捕らわれの身だったわけですね。





    こんな風に新暦換算は、

    感覚的に歴史をとらえることができます。





    とは言うものの、

    こだわり過ぎるのもどうかと思いますので

    お話はこのくらいに…





    でも「新暦の近藤勇の命日を覚えていて下さい」

    とおっしゃっていた「歳三忌」での

    釣洋一氏のお言葉を思い出して、お話させていただきました。

    (上記の「新暦の4月25日〜5月17日まで、

     近藤勇は捕らわれの身」の話もその時ありました)






    ちなみに「気になる歴史のあの日」の新暦換算には

    こちらが便利です。

    ⇒ 新暦と旧暦の変換計算




    以前 けろっぴ姫さんから教えていただいたサイトです。

    ご利用下さいね

    (けろっぴ姫さん、その折はありがとうございます^^)





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  • [2008/05/17/12:16][ ↑ ][ ↓ ]

  • 井上源三郎 誕生の日


    新選組版「今日は何の日」です



    『源さん』の愛称で、今の時代にも親しまれている

    新選組六番隊組長の井上源三郎




    1829(文政12)年3月1日の生まれ





    だそうです





    武州日野宿の八王子千人同心の家に

    三男として誕生しました。





    源三郎は

    『ふだんは無口で温和な人だったが、

    一度こうと思い込んだらテコでも動かない一徹な人』


    だったといわれています。





    江戸時代、

    西国者たちに万一、甲州方面から攻められた場合の

    江戸の防御として八王子千人同心は

    配置されていましたが、

    泰平の世では平素は農業に従事していました。






    しかし、いざ事が起こったときには

    武装して戦うことを目的として

    常日頃からの武術の修練は怠りませんでした。






    そんな千人同心の家に生まれた源三郎は

    他の兄弟たちが天然理心流に打ち込む姿を見て

    自らもごく自然に、天然理心流を学んだと思われます。





    源三郎の天然理心流入門は18〜19歳の頃だと

    いわれています。




    井上家の兄弟たちは農作業のできない雨の日には

    広い土間で稽古に励んでいました。





    柱に向かって木刀の打ち込みをしていたので、

    柱の一部が細くなってしまったほどです。





    また

    「稽古ばかりして、野良仕事が遅れて困った」


    という伝承も井上家には残っているそうです





    昔のドラマでは、好々爺で

    剣の腕はからっきしダメな人物のように

    源三郎は描かれていましたが、





    実際の源三郎は1848(嘉永元)年から、

    1860(万延元)年までに

    切紙、目録、中極位目録、免許と順調に取得しています。





    当時の家の三男は通常なら他家の養子に行くか、

    嫁を貰わず一生独身で家の世話になるかの

    選択しかありませんでした。





    源三郎も本来なら

    そうして一生を終わるところでしたが、

    時代はそれを許さず、浪士隊上洛の話がきっかけで

    彼の人生は大きく変わります。





    時代のひのき舞台となる京へ足を踏み入れ

    自慢の免許皆伝の腕を奮うことになるのですから、

    人生とはなんとも不思議なものですね。



    関連過去記事

    → 
    井上源三郎資料館

    → 井上源三郎最期の日




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  • [2008/03/01/10:37][ ↑ ][ ↓ ]

  • 山南敬助 切腹の日

    新選組版「今日は何の日」です。



    1865(元治2)年 2月23日





    この日、新選組総長 山南敬助が

    壬生の前川邸で切腹しました。






    子母沢 寛著 『新選組始末記』を題材にした

    ドラマなどでもおなじみの話ですね。

    永倉新八著の 『新撰組顛末記』も含めてその話を要約すると。。。



    その頃、近藤は副長の土方の考えを重視し、

    総長である山南をなにかと疎んじていました。




    もともと勤王思想であった山南は

    新選組のあり方に疑問を持つようになっていました。





    何事にも反対を唱える山南に

    近藤もいちいちその意見を受け入れることが

    できなくなっていたのです。




    その頃新しく江戸からやって来た伊東甲子太郎は

    勤王攘夷派で二人は意気投合し、

    山南は彼の論に次第に心酔していくようになりました。





    それをまた近藤はよくは思わず。。。





    山南には機会があれば脱退して勤王運動に尽くそう

    という伊東との暗黙の了解があり、

    何かのきっかけでそれが行動に移されたようです。





    一説にはちょうど隊士が増え、手狭になった壬生屯所から

    西本願寺へ移転する話が浮上し、またも反対する

    山南の意見を受け入れようとしない近藤に対して、




    「こんな局長とは行動を共にできない!!」




    と脱走、沖田総司が大津に行って連れ戻した

    とあります。





    壬生に戻った山南を伊東と永倉が訪ね

    再び脱走をすすめますが、

    山南は壬生に戻ったときからすでに覚悟を決め

    真摯に沙汰を受け入れ、幹部達との水杯の後

    沖田の介錯で見事に果てたということです。








    とても有名な話ですが、

    実は事の真相は はっきりとわかっていません。






    最近の研究では

    元治元年1月に山南は命にかかわる事件に遭遇し

    その後、通常の隊務にもつけない有様になったともいいます。





    それが原因で池田屋事件にも参加できず、

    日を追うごとに諸々の出来事がつのり、

    何かのきっかけで脱走、または脱走扱いにされ

    切腹に至ったという説もあります。

    (参考/菊地 明著 『沖田総司伝私記』






    どちらにしても想像の域は出ないようです。

    しかし2月23日に山南が切腹し

    光縁寺に埋葬されたことは事実です。






    2月23日。





    この日は奇しくも

    「浪士隊が江戸から期待を抱いて上洛し、京へ到着した」

    という彼らにとっては特別な日でもありました。





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  • [2008/02/23/11:18][ ↑ ][ ↓ ]

  • 浪士組、江戸出発の日

    新選組版 今日は何の日です。




    1863(文久3)年。




    250年ぶりに将軍(家茂)が京へ上るにあたり、

    テロが横行する京の治安が深刻な問題となっていました。





    その問題を解決すべく幕府がたてた方策は

    「浪士には浪士をもって対処する」
    というもの。





    つまり

    江戸の周辺にいる浪士を集めて京へ送り込み、

    洛中の浪士を取り締まらせよう


    としたのです。






    この方法なら

    江戸から不逞浪士がいなくなるし、

    京都の浪士も一掃できるし、

    しかも自分達の家臣にも被害者がでないという

    一石三鳥の良策と考えたわけです






    とはいうものの集まったやからは

    着物もボロボロで月代の伸びた奴や

    坊主頭の者、はては博徒ふぜいの者まで、

    思った以上のとんでもない者たちがやってきました





    この中に我等が試衛館一派もいたのですが。。。





    しかも集まった人数は

    当初考えていた50人よりも多くおよそ300人!





    それを知った浪士取締役の松平主税介は

    これ以上の責任が取れないことを理由に辞任。

    代わりに鵜殿鳩翁が取締役になりました。





    鵜殿は1人50両の支給を大幅に削減し、

    2月5日に道中心得を渡し編成表を発表したのです。





    かくして1863(文久3)年2月8日

    小石川伝通院大信寮に終結した浪士組は

    京に向けて江戸を旅立ちました。






    この集団は目立つ東海道を避けて

    中山道をひたすら西へ歩き続けますが、

    道中各宿場の人たちはいったいどんな目で

    彼らを見ていたのでしょうね。




    きっと異様な集団に

    怪訝な顔をしていたことと思いますが、

    試衛館の人々はこれからの自分達の明日に

    使命感と期待を膨らませながら

    京に向けて進んでいたことでしょう




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  • [2008/02/08/12:34][ ↑ ][ ↓ ]

  • 島田魁 誕生の日

    新選組版 「今日は何の日」です。



    新選組二番隊の伍長であり、

    諸士調役兼監察の任に就くことになる島田魁(かい)は




    1828(文政11)年1月15日
    に美濃国厚見郡雄綱村で誕生しました。





    郷士近藤伊右衛門の次男である彼は、父の死後

    永縄家(母の姉妹の嫁ぎ先)、そして川島家(母方の祖父)に預けられます。




    魁のご子孫の話によると、名古屋城内で御前試合が行われた際、

    彼はみごと優勝し、その腕に惚れ込んだ大垣藩の島田才に養子にと懇願され

    島田家を継いだと伝えられているそうです。





    29歳のとき、魁は江戸に出ることを決し、

    心形刀流坪内主馬道場に入って剣の修業を行いました。




    その道場には一時期永倉新八も師範代として籍を置いており、

    二人は新選組以前から面識があった可能性も考えられます。





    また新選組に入る前、

    大阪の谷万太郎(新選組隊士)の道場にも出入りしていたことがあり、

    種田流槍術も学んでいたようにもみうけられます。




    新選組に入隊したのは文久3年の5月頃。

    それは永倉との縁もあっての入隊かもしれません。





    入隊直後から幹部たちに重用され、以来

    池田屋騒動や鳥羽伏見の戦い、そして箱館戦争へと

    この身長6尺(約182センチ)、体重45貫(約169キロ)の巨漢の隊士は

    新選組の歴史とともに時代を駆け抜けるのです。



    (魁の逸話はまた後日…)






    参考書籍/歴史読本(2004年12月号)他
           




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  • [2008/01/15/09:06][ ↑ ][ ↓ ]

  • 井上源三郎最期の日



    新選組版 「今日は何の日」です。




    鳥羽伏見の戦い3日目。




    旧幕府軍が圧倒的な大軍だったにもかかわらず、

    薩長軍側の新式銃火器登場により

    しだいに旧幕府軍劣勢状態へと変わっていきました。





    前日より千両松に待機していた新選組にも

    最大の激戦が訪れます。





    1868(慶応4)年1月5日






    薩長軍からの銃弾の攻撃は

    相変わらずすさまじいものでしたが、

    それでも不意をついて彼らに接近し、

    新選組は槍や刀で応戦しました。





    一旦は敵を退かせたものの

    次々と襲ってくる銃弾になすすべもなく

    新選組隊士たちは次々と倒れます。






    そして江戸以来の仲間である井上源三郎も

    銃弾を受け壮絶な最期を遂げるのです。






    この日戦死した隊士は14名。





    源三郎が戦死したとき、

    甥の井上泰助はすぐさま叔父の刀と首を取り、

    持ち去ります。






    しかし退却の途中、あまりの首の重さに

    隊から遅れがちになり、仲間からの助言で

    泣く泣く 途中にあった寺の前の田んぼに

    刀と叔父の首を埋めてくるのです。





    後に泰助は家人にその話を残しますが、

    残念なことにその寺の名前は

    現在では定かではありません。






    千両松から敗走した新選組は、

    淀城で反撃をこころみるつもりでしたが、

    淀藩に入城を拒否され、

    城の西側 約4キロ先の橋本まで後退します。






    そして6日、津藩が新政府軍に寝返ったことから、

    旧幕府軍は戦いを維持できずに撤退、

    新選組も大阪まで敗走することになるのです。





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  • [2008/01/05/10:08][ ↑ ][ ↓ ]

  • 「鳥羽伏見の戦」開戦の日


    新選組版 「今日は何の日」です。




    その前年の暮れ、

    戦争回避の為に旧幕府軍が大阪へ移動した時、

    新選組も京都から伏見へと移駐しました。





    伏見は京阪の街道と水路の重要ポイントであり、

    また、退いた幕府軍が

    再度京都に向かう最前線でもありました。





    その日、鳥羽街道を閉鎖中の薩摩藩兵と旧幕府軍が接触。




    「通せ」「通さない」の問答の末、

    一発の砲声を合図に戦いが勃発したのです。





    それが1868(慶応4)年1月3日夕刻、

    鳥羽伏見の戦いの始まりです。





    鳥羽方面から砲声が聞こえると

    伏見方面にも戦いが始まりました。





    伏見奉行所を本陣にしていた新選組は

    北方の高台にある御香宮神社に布陣する薩摩藩軍から

    集中砲弾を打ち込まれます。





    実は御香宮神社は昔

    徳川家康が社殿などを寄進したという徳川家ゆかりの場所で、

    最初 神社の表門には「徳川氏陣営」の札が

    掲げられていたのです。





    ところが当時の宮司がそれを発見し、御所へ注進。





    そのため薩摩藩がやってきて さっさとこの札をはずし、

    部隊を置いてしまったようです。





    この高台からの砲弾は、薩摩藩にとっては大変有利、

    逆に新選組にはかなり不利な状態でした。






    それでも何とか接近戦を試みようと、

    永倉新八率いる2番隊が伏見奉行所の塀を乗り越え、

    御香宮神社に接近します。





    しかし相手からの銃弾はすさまじく

    どうしても白兵戦に持ち込むことができません。

    しかたなく、奉行所に撤退します。






    塀をよじ登り奉行所内に入ろうとする2番隊。

    そのとき鎧の不自由さで塀に上がれずにいた永倉を

    島田魁が上から槍を差し出して掴まらせ、

    ヒョイと持ち上げた話は有名ですね。





    その後奉行所から火の手が上がり、

    新選組はその場所に留まることを断念。





    夜になっても抗戦は続けましたが、

    結局は旧幕府軍と共に淀方面に敗走しました。






    この日新選組は、2人の戦死者を出してしまいます。





    しかし、それは序曲にしかすぎず、

    激しい戦いが彼らの前に待ち受けるのです。





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  • [2008/01/03/14:59][ ↑ ][ ↓ ]

  • 近藤勇 墨染で狙撃!

    京都から伏見に移った新選組は

    伏見奉行所に陣を構えました。




    近藤勇は軍議のため、

    伏見から京の二条城を

    度々訪ねることになります。





    その日も二条城へ赴き

    永井玄蕃と会談した帰りでした。




    島田魁ら新選組隊士20名余りを伴い、

    街道 墨染に差しかかった時です。




    一発の銃声と共に

    馬上にいた近藤の肩に衝撃が走りました。





    1867(慶応3)年12月18日

    それが近藤勇が狙撃された日です。






    その前の月のこと。




    新選組が油小路で、

    以前同士であった伊東甲子太郎ら

    御陵衛士を暗殺。





    その際に生き残った

    篠原泰之進、加納道之助、

    富山弥兵衛、阿部十郎らが、





    その日、近藤がその場所を通ることを突き止め、

    墨染で待ち伏せしていたのでした。





    近藤は血を流しながらも

    気丈に馬上に留まります。





    咄嗟に島田が馬の尻を刀で叩き付け、

    馬は伏見奉行所に向け走り出しました。





    伏見奉行所に戻った近藤の難を聞き、

    永倉新八が1、2番隊を引き連れ

    現場へと向かいます。





    近藤の傷は幸いにも

    急所は外れていましたが、

    重症には違いなく、






    すぐさま大阪城での治療のために

    労咳療養の必要があった沖田と共に

    大阪へ移されます。





    以後、新選組の指揮はすべて

    副長の土方歳三が取ることになり、

    鳥羽伏見の戦いへと突入していきます。





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  • [2007/12/18/23:03][ ↑ ][ ↓ ]

  • 蝦夷共和国 誕生の日

    新選組版 今日は何の日です。




    榎本武揚ひきいる旧幕府軍は

    鷲ノ木から蝦夷に上陸し、

    五稜郭入城後、松前・江差を平定しました。




    江差沖で頼みの綱である「開陽丸」を失いながらも

    箱館に彼らの理想の国を作り始めるのです。




    1868(明治元)年12月15日

    蝦夷共和国の誕生です。





    その日は箱館港内に101発の祝砲が鳴り響き、

    昼夜おおいに賑わったといわれています。




    総裁     榎本武揚
    副総裁    松平太郎
    陸軍奉行   大鳥圭介
    陸軍奉行並  土方歳三
    会計奉行   榎本対馬
    会計奉行   川村録四郎
    開拓奉行   沢太郎左衛門
    箱館奉行   永井玄蕃
    箱館奉行並  中島三郎助
    江差奉行   松岡四郎次郎
    江差奉行並  小杉雅之進
    松前奉行   人見勝太郎



    日本で初めての入り札制(つまり選挙)
    による

    役員の選出は、さすが海外留学で経験豊富な

    榎本武揚らの発想ですね。




    これは歴史的にも画期的なことでありました。





    実際には仕官以上の入れ札によるもので

    兵卒らの参加はありませんでしたが、

    もし彼らが加わっていたら

    また違った結果が出ていたかもしれません





    さて、海外知識豊富な榎本ら蝦夷共和国は

    諸外国との交渉を巧みに行い、

    外国船への徴税や、プロシアとの

    七重開墾地の租借契約による金銭の借り入れ、

    米の買い入れなどで政権を確立していきました。
    (後に明治政府が条約解除)




    しかし、明治政府がこれを黙認するはずもなく、

    諸外国へ働きかけ、とうとう12月26日、

    諸外国は局外中立の撤回を宣言し、

    明治政府と榎本軍とのあらたな展開をむかえるのです。




    局外中立の撤回は

    入り札による新政権発足後

    13日目のことでしたが、

    わずかな日数とは言いながら

    その間、明治政府とは独立した

    政治機能が箱館で働いていました。




    歴史的には認められないその国のことを

    『幻の共和国』
    と呼ぶ人もあります




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  • [2007/12/15/11:22][ ↑ ][ ↓ ]

  • 天満屋事件の日

    ことの発端は1867(慶応3)年4月。




    瀬戸内海で紀州藩船の「明光丸」と

    坂本龍馬率いる海援隊の「いろは丸」が衝突し、

    「いろは丸」が沈没したことから始まります。




    龍馬の働きかけで海援隊側の言い分が通り、

    紀州藩は彼らに多大な賠償金を

    支払うことになりました。




    紀州藩は少なからず、

    龍馬を憎々しく感じたでしょう。




    同年11月、龍馬が暗殺された時、

    海援隊の者たちはこの事件を思い、

    龍馬にうらみを持つ

    紀州藩周旋方の三浦休太郎が

    犯人に違いないと信じ、

    龍馬の復讐のため

    彼の命を奪うことを計画します。




    三浦休太郎はそのことを察し、

    新選組に身辺の護衛を依頼したのです。




    集まった暗殺者たちは

    海援隊の陸奥宗光、沢村惣之丞、

    十津川郷士の中井庄五郎ら16人。




    一方新選組側は、

    斉藤一、大石鍬次郎、宮川信吉、

    中村小次郎、中条常八郎、

    梅戸勝之進、船津釜太郎ら7人。
    (諸説あり)




    十津川郷士の中井庄五郎が

    三浦の滞在する天満屋に

    最初に踏み込んだのを合図に

    乱闘が始まりました。




    それが1867(慶応3)年12月7日の
    天満屋事件です。





    三浦は中井の刀を受けたものの

    新選組側の咄嗟の機転で、

    すぐに安全な場所へ移され命は無事でした。




    しかしこの戦いで

    近藤勇の甥である宮川信吉が死亡。


    梅戸勝之進は重傷を負い、

    以後刀を振れない体になったそうです。




    斉藤一も危うく命を落としそうになり、

    中村、中条も負傷しました。




    襲撃犯たちも中井庄五郎が即死、

    竹中与三郎が重傷を負い、この事件が 

    いかにすさまじいものだったかが

    察せられます。




    この事件が京都滞在中の

    新選組最後の戦いとなり、

    彼らの京都時代はここに終わりを告げます。




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  • [2007/12/07/13:17][ ↑ ][ ↓ ]

  • 開陽丸座礁の日 〜そして沈没〜

    新選組版「今日は何の日」です。



    松前から江差に進軍中の

    土方歳三ら陸軍を援護すべく、

    榎本武揚以下 開陽丸乗組員は

    1868(明治元)年11月14日

    箱館を出港しました。




    途中松前に立ち寄り、

    翌朝江差に着いた開陽丸は

    日の出とともに陸地に向かって発砲しましたが、

    松前藩の応戦は結局ありませんでした。




    土方たちより一足はやく

    江差を占拠した榎本たちは

    進軍中の陸軍へ使者を送り

    彼らを待つことにしました。




    夕刻になって、

    この地特有の波浪(タバ風)が起こり、

    天候が時間の経過とともに荒れだします。




    開陽丸は波にもまれ

    錨を定着させることができません。

    艦員たちにはどうすることもできず、

    とうとう艦は暗礁に乗り上げてしまったのです。




    開陽丸座礁 それが11月15日です。

    (新暦1868年12月28日)





    開陽丸乗組員は手を尽くして

    暗礁からの脱出を試みますが、

    荒れる波浪にどうすることもできず、

    ますます身動きがとれなくなっていきます。




    翌16日、江差に到着し土方が見たものは

    座礁し身動きがとれず悲痛な姿をさらした開陽丸。

    丘の上からその様子をみた彼は

    悔しがって近くの一本松を

    叩きつけたとも伝えられています。





    開陽丸座礁の報告を受けて、箱館から

    回天丸・神速丸が救助にかけつけますが、

    しけのため投錨できないばかりか

    神速丸は機関に故障をきたし、

    これも川尻付近で座礁してしまうのです。





    座礁から5日後、風波が静まったのをみて

    乗組員が開陽丸から脱出しますが、

    艦はどうすることもできず、

    その約5日後 海の底へと消えていきました。

    短期間に榎本軍は大切な艦を2つも失ってしまったのです。



    開陽丸沈没。




    その報により

    今まで明治政府と榎本軍に対し

    中立の立場を取っていた諸外国の態度が一変し、

    日本へ売却予定だった甲鉄艦

    明治政府に売り渡します。




    これにより最強の海軍を誇り

    それを武器にしていた榎本軍と

    明治政府の勢力が逆転し、

    来るべき最期の戦いに

    榎本軍は幾多の不安を残すことになるのです。




    開陽丸沈没はまさしく

    榎本軍の運命の分岐点ともいえる

    できごとでありました。 




    松ぼっくりを拾いました

    伝説の「歳三なげきの松」です
    (クリックで画像が大きくなります)





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  • [2007/11/15/10:57][ ↑ ][ ↓ ]

  • 松前城陥落の日

    新選組版「今日は何の日」です。




    蝦夷箱館に上陸した榎本軍は、

    10月26日、五稜郭へ無血占拠を果たしました。



    榎本武揚は

    蝦夷来航の趣意を松前藩主へ知らせて

    和平協力を要請をする目的で、

    松前藩士桜井怒三郎を使者に立てて

    書状を松前城まで届けさせました。




    しかし松前藩はそれを受け入れず、

    そればかりか桜井を斬首してしまうのです。




    この抗戦的な態度に

    榎本軍は松前城の攻撃を決め、

    10月28日土方歳三を討伐の将として、

    額兵隊・陸軍隊・彰義隊・新選組をひきつれ

    進軍します。




    途中小競り合いはあったものの

    大きな被害はなく、

    11月5日早朝
     
    全軍が松前に集結
    しました。





    そして戦闘開始!




    このとき松前藩主の松前徳広(のりひろ)は

    すでに脱出していて、城の守備兵は

    百人余りだったといわれています。





    それでも彰義隊らが門前に進撃してくると

    藩士達は大砲で激しく応戦し、

    なかなか城内へ入ることができませんでした。





    業を煮やした榎本軍は一部を城の裏手に回らせ、

    はしごで塀を乗り越え、松前藩兵の背後をついて

    彼らを混乱に落としいれ、最終的には

    松前城陥落を成功させたのです。




    それが1868(明治元)年11月5日でした。





    門前進撃の際、松前藩兵は

    「門を開けては大砲を撃ち、門を閉じては玉込めをし」

    を繰り返し、榎本軍を大いに悩ませたという話もあり、

    よくドラマの題材に使われていますが、

    真偽のほどはわかりません。




    この戦いは数時間で終わったそうですが、

    松前藩側の死者は6人負傷者4人、

    榎本軍は死者2人出しています。




    こうして榎本軍は松前城攻略に勝利したのですが、

    その勝利に浸るまもなく、数日後には

    運命の分岐点ともいえるあの江差へと

    進軍していくのです。




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  • [2007/11/05/10:35][ ↑ ][ ↓ ]

  • 榎本艦隊 蝦夷地上陸の日

    新選組版 今日は何の日です。




    1868(明治元)年10月12日に

    仙台(折ノ浜)を出航した榎本艦隊は、

    途中 宮古湾の鋤ヶ崎で隊を整え蝦夷へ向かいます。




    蝦夷で最初に訪れたのは、

    内浦湾の鷲ノ木沖でした。



    直接箱館に行かなかったのは、

    箱館府との戦争を避けるため、

    戦争による諸外国の不信感をつのらせないためとの

    配慮があったようです。




    甲板の上からみた蝦夷は

    四方を望むと積雪が山を覆い、

    一面が銀世界だったそうです。




    榎本武揚は、蝦夷地来航の趣意を書いた手紙を

    箱館府知事 清水谷公考(きんなる)に奉上するため、

    使者を先行上陸させ、五稜郭に向かわせます。




    それが1868(明治元)年10月20日(新暦に換算すると12月3日)でした。




    この午後から海上は 時化(しけ)となりました。

    積雪30センチ、北西の強風。

    高波のため、船からはしけに乗り移るのも難渋し、

    海中に転落するものもいたほどです。




    はしけが転覆することもあったようで、

    この時死者が16人も出たといわれています。




    土方歳三らは22日に上陸したようで、

    島田魁、立川主税、野村利三郎、田村銀之助らとともに、

    額兵隊、春日隊などを率いて沿岸道を南下、

    川汲峠(かっくみとうげ)を抜けて

    箱館へ向かいます。




    これから1ヶ月余り土方他陸軍兵士は

    厳しい積雪の中、

    蝦夷平定のために松前、江差へと

    行軍していくことになります。





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  • [2007/10/20/10:47][ ↑ ][ ↓ ]

  • 近藤勇 誕生の日

    1834(天保5)年、武蔵国多摩群上石原村(現 東京都調布市)で

    父宮川久次郎、母みよ の子として

    一人の男児が誕生しました。




    それが宮川勝五郎、のちの近藤勇です。


    勇の誕生の日は10月9日だったらしいです。

    (はっきりとはわかりません。この情報も孫引きしてます)





    上石原村は、甲州道中布田五宿

    (上石原村・下石原・上布田・下布田・国領)のひとつで、

    上石原村には当時87軒の家があったそうです。




    宮川家周辺には6戸程度の家があり、

    宮川家は豪農といわないまでも

    比較的裕福な生活をおくっていたようです。




    天保9年の「宗門人別帳」によると

    家族は父母、祖父源次郎、

    長兄音次郎(のち乙五郎)、次男粂蔵(のち粂次郎)と

    三男勝五郎の6人家族でしたが、

    天保10年に母が亡くなっています。




    久次郎は自衛のために敷地内の納屋を改造し、

    天然理心流三代目 近藤周助を招き、

    近所の人々を集めて剣術を学びました。




    その稽古にいつからか三兄弟も加わるようになり、

    その後周助が、勝五郎の剣に対する天賦の才を認め、

    近藤家の養子として迎えるのです。




    そして勝五郎(養子後は島崎勇)は

    1861(文久元)年、

    天然理心流四代目を襲名し、近藤勇と名乗るようになりました。





    ※「宗門人別帳」とは?

    現代の戸籍のようなものです。

    江戸時代、キリスト教を禁じる目的で

    幕府が村ごとに作らせました。



    毎年村全員の人名を記入・押印させ、

    その人物はどの寺の檀家か、

    寺側は記名者が檀家であることを証明し、

    村役人がこれを保管していました。



    それまでは勇の幼名は「勝太」といわれていましたが、

    1988(昭和63)年に

    江戸時代に上石原の村役人を務めていた家から

    宗門人別帳がみつかり、調査の結果

    勇の幼名が「勝五郎」だったことが

    わかったというエピソードがあります^^





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  • [2007/10/09/22:48][ ↑ ][ ↓ ]

  • 芹沢鴨暗殺の日

    新選組版「今日は何の日」です。




    昨日のランキングは3位でした。きょうは何位かな? →
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    上洛以来、数々の暴挙を行っていた芹沢鴨ですが、

    大和屋焼き討ち
    は やりすぎだったというべきでしょう。




    江戸時代の「火付け」は大罪。

    しかも御所の近くでのこの騒ぎ。

    これが大問題とならぬはずがありません。




    会津の公用方が近藤らを呼び、

    芹沢の処置を命じたとも言われています。




    その日は朝から雨が降っていました。





    島原の角屋(すみや)で新選組の総会が開かれたといわれています。

    すでに数日前には芹沢の腹心 新見錦が切腹し、

    芹沢たちにその処罰を追及される前に、行動を起こす必要がありました。




    会合が済むと すぐに宴会が始まりました。

    土方らは芹沢らを酔わせるため、

    盛んに酒をすすめていたといいます。




    暮六ツ頃芹沢は、平間重助・平山五郎を引き連れ

    壬生に戻りました。

    壬生にはお梅がいたようで、島原から連れてきた

    桔梗屋の小栄、輪違屋の糸里
    とともに酒宴となりました。

    酔いがまわると彼らは床についたのです。




    さらに夜は更け…




    最初に寝所にやってきたのは土方だといわれています。

    彼は室内の様子を伺い去っていきました。




    しばらく後 数人の男たちが抜き身を手に突入。

    平山とお梅は即死。

    芹沢は傷を負いながらも縁側に出て、

    隣の部屋に逃げ込もうとしました。

    しかし室内の文机につまづいて倒れたところを

    次々と斬りつけられとうとう絶命したのです。←今でも八木家に刀傷あり!




    その日が文久3年9月18日でした。





    この暗殺日は9月16日だったともいわれています。

    幾つかの史料から、当時の18日は雨ではなく

    16日に雨が降っていたことがわかっていること。

    墓石に書かれた「9月18日」の文字は

    葬儀のあった日を意味している可能性が高い

    などの理由からです。





    また暗殺者の5人も「近藤・土方・沖田・山南・原田」という

    説の他に、別のメンバーの説もあるようです。





    現場にいた小栄と糸里は無事でした。

    平間重助も無傷で、下帯一本の姿で抜き身を持ち

    大声で叫んでいましたが、いつしか姿が消えて

    行方知れずになったといわれています。





    ちなみに最近の歴史家の研究で
     
    平間はそのまま郷里の芹沢村に帰り、

    明治7年まで存命していたことがわかっています。




    一方芹沢派の最後のひとり 野口健司は

    当日は角屋に残っていたため難は逃れましたが、

    同年12月27日に切腹しています。




    この粛清により、名実ともに新選組は

    近藤たちのものになりますが、

    数年後には、幕府の落日とともに

    新選組もその姿を消してしまうことになります。




    「盛者必衰」とはよく言ったものですね




    参考書籍「沖田総司伝私記 / 菊地 明著(新人物往来社)」





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  • [2007/09/18/10:40][ ↑ ][ ↓ ]

  • 八・一八の政変


    新選組版 「今日は何の日」です



    1863(文久3)年8月18日

    八・一八の政変の日です。





    文久3年、当時は京の町にテロがはびこり、

    尊攘急進派の公家と長州藩による

    無謀ともいうべき攘夷活動が急速に進められていました。





    しかし、公武合体の効果に手ごたえを感じていた

    孝明天皇は、彼らの暴走に不快感を示していました。





    在京の諸侯も長州の行動に異をとなえ、

    その中で力のある薩摩藩と、京都守護職の会津藩が手を握り、
    ←※ここがポイント

    天皇の内意を受けていた中川宮と協議の上、

    8月18日朝
     在京諸侯を急遽御所へ招集させ、

    長州藩の御門警備を解任し、

    尊攘急進派の公家と長州藩を閉め出しました。






    長州藩士たちは抗議しましたが、

    18日夜 妙法院で藩の幹部と公家たちが善後策を協議した末

    長州西下に決まり、

    雨の中、七人の公家を伴い長州へ向かったのです。(七卿落ち)





    諸侯招集の際には新選組(当時は壬生浪士組)も参内し、

    その時からその存在も公に認められ、

    「新選組」の名前を頂くことになりました。






    彼らにとっては、忘れられない出来事だったのです。




    ※注…「力のある薩摩藩と、京都守護職の会津藩が手を握り」
              ↑  ↑   ↑
      これがあったから、戊辰戦争以降会津藩は薩摩藩に裏切られたと
      ずーっと思っているのです。





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  • [2007/08/18/10:07][ ↑ ][ ↓ ]

  • 「京都守護職」設置の日

    新選組版「今日は何の日」です。



    7月27日は「京都守護職」が設置された日です。




    以前から京都所司代が町の治安維持にあたっていましたが、

    当時の京の治安はすこぶる悪く、それだけでは手におえず、

    幕府は京都所司代の上層機関として京都守護職を設置しました。




    その日が1862(文久2)年7月27日でした。





    その京都守護職になったのは会津中将松平容保様。

    最初は彦根藩なども候補に上っていたようですが、

    最終的には黒船来航で浦賀の警備にあたっていた際の

    誠実な仕事をかわれて会津藩のご使命となったようです。




    でも情勢を見れば誰もこんな仕事を引き受けたくはないですよね!

    もちろん会津藩も固辞しましたよ。容保さんは病弱でしたし。。。




    でも結局引き受けてしまいました。

    なぜなら 容保さんは会津に養子に入った際、

    会津藩の家訓をきっちり叩き込まれていましたから。





    会津松平家の祖・保科正之は3代将軍家光の異母弟です。

    正之は家光にすごく信頼されていて、

    正之自身も家光に恩を感じていたようです。




    そして

    「大君(将軍家)を第一義として忠節をもって勤めよ。

     もしこれができないのなら自分の子孫ではないから、

     家臣たちも従うな」

    という家訓を残したのです。




    幕府は再三固辞する容保にこの会津の家訓を持ち出し

    説き伏せてしまったのです。





    当時26歳の若さの容保は家臣たちを集めて

    「義を第一に将来のことは考えず京都を死に場所としよう」

    と覚悟を語ったそうですよ。





    泣けますね〜。

    もちろん家臣たちも感涙しましたよ。





    松平容保は同年12月24日、家臣1000人を従え

    京都守護職として堂々入洛。

    金戒光明寺に入り、以降鳥羽伏見の戦いまで

    その地で治安維持の指揮をとるのです。




    就任の際に覚悟していたとはいえ、

    戊辰戦争で京をおわれ、なおかつ

    あのような会津の悲劇に襲われることまでは

    さすがに想像はできなかったでしょう。




    誠心誠意 帝や幕府に使えたのに、

    賊軍呼ばわりされるなんて

    相当無念だったに違いありません。

    帝から頂いた御宸翰(ごしんかん=帝からの手紙)を

    生涯肌身離さず持っていた気持ちもわかります。





    容保さんのことをよく知らなかった頃の私は

    「ただの病弱な殿様」くらいにしか思わず、

    どちらかといえば好きではない人物のひとりでしたが、

    彼のことを知れば知るほど好人物として感じるようになりました。



    なにより実直な姿に感動します。

    もちろん、今では大好きな幕末の人物のひとりです(^^)



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  • [2007/07/27/11:35][ ↑ ][ ↓ ]

  • 禁門の変

    新選組版「今日は何の日?」です。




    1864(元治元)年7月19日に「禁門の変」が勃発しました。





    前年の「八・一八の政変」で京都での政治的基盤を失い、

    不満をつのらせていた長州藩は

    「池田屋事件」をきっかけに武力をもって立ち上がります。




    幕府の横暴を朝廷に訴えようと、長州から2500人程が京をめざし、

    途中 志を同じくする西国浪人や在京の脱藩浪人たちも合流し、

    入京時には3000人程に膨れ上がったといわれています。




    一方、藩兵を率いた軍事行動を一切禁止している幕府は

    「天皇のおわす京の地に軍隊を集結させるとはなんたることか」

    とばかりに、将軍後見人の一橋慶喜(当時の将軍は家茂)に

    総指揮を任せ、薩摩・桑名・会津藩ら総勢8万近くを動員し

    19日朝より戦闘を開始します。




    開戦からしばらくは長州藩家老 国司信濃や

    来島又兵衛らの主力隊が奮戦し、

    御所近くの蛤御門(はまぐりごもん)まで侵攻しますが、

    蛤御門を守っていた会津・薩摩の軍にたたかれ敗退、

    また両軍の圧倒的な兵力の開きにより、各地の長州軍も敗れます。





    新選組もこの戦いに参戦しますが

    すでに戦闘は終結しつつあり、

    敗走軍の追討の任務に天王山へ向かい、

    そこで敵将真木和泉らの最期を見届けます。




    こうして幕府の圧勝で終わった

    「禁門の変(蛤御門の変ともいう)」
    ですが、

    京の都は家屋約2万8千軒、

    町の約3分の2が焼失してしまいました。




    池田屋騒動の際、

    「京の都を火の海にし、天皇を長州へお連れする」という

    長州藩の陰謀を阻止すべく行動した新選組でしたが、

    そのわずか数ヶ月後に 結局は

    町の約3分の2を焼失させてしまう

    最悪な事態を招くことになったのは

    なんとも皮肉なことですよね。



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  • [2007/07/19/10:01][ ↑ ][ ↓ ]

  • 不動堂村移転の日

    今日は何の日?です。



    1867(慶応3)年 6月15日。



    この日新選組は「西本願寺」から「不動堂村」に引越しました。



    池田屋事件や禁門の変での働きにより、

    その名を天下に知らしめた新選組は

    人員の増加により手狭になった壬生を離れ、

    西本願寺に移転しました。




    その移転については、

    長州びいきの西本願寺を監視するという

    役割もありましたので、

    半ば強引に西本願寺に入り込んだのです。





    しかし、わざとか やむを得ずか、

    新選組隊士たちは神聖なる境内で

    大砲調練はするわ、

    捕縛した人や、動物(食用)の

    断末魔の叫び声(?)を響かせるわの始末。




    とうとう耐え切れなくなった西本願寺側が、

    費用全額負担の上、大名屋敷のような立派な建物を建築し、

    新選組にそちらへひきとってもらったというわけです。




    それが6月15日でした。




    すごいお屋敷だったらしいです。

    約1万平方メートルの敷地に、

    数奇屋造りの建物と表門・高塀・玄関・長屋。

    内は使者の間・幹部の個室・隊士の部屋、

    30人が一遍に入れるお風呂などがあったそうですから。




    試衛館時代には考えられない出世ですよね。




    ちょうど引越しの5日前、

    新選組は幕臣に取り立てられて

    近藤勇などは「御目見得(将軍謁見可)」以上の身分になっていたので、

    彼らの喜びはひとしおだったと思います。




    しかし歴史は彼らの意思などお構いなく倒幕へと流れ、

    大政奉還、鳥羽伏見の戦いへと進み、

    彼らがこの屋敷に住んだのは

    僅か半年間のことでした。




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  • [2007/06/15/11:46][ ↑ ][ ↓ ]

  • 池田屋事件

    6月5日は池田屋事件のあった日です。




    兼ねてより不逞浪士たちの動向を探っていた新選組ですが、

    桝屋喜衛門宅を捜索し、重要参考人として主人を連行します。



    捜索の際、大量の武器弾薬のほか、

    志士たちの名が書かれた書簡が見つかったことから、

    主人の喜衛門こと古高俊太郎を拷問にかけ、

    「強風の日に御所を放火し、松平容保らを暗殺した上で

    孝明天皇を長州へ動座する」
    という計画を自白させました。




    古高逮捕を知った志士たちが

    善後策検討のための会合を開くことを察知した新選組は、

    その場所を尽きとめるべく捜索を開始。



    折から脱走等で人員が減っていた隊士を二手に分け、

    近藤隊、土方隊とで木屋町方面を探索しました。




    そして夜10時頃

    近藤以下10名が池田屋で浪士たちと遭遇します。



    本来なら捕縛するのが道理ですが

    もちろん志士たちが神妙に縄につく筈もなく、

    斬りあいとなります。




    後には土方隊も合流しますが、戦闘は2時間余りにもおよび、

    志士側は即死者7名、捕縛者23名(後9名死亡)

    新選組は即死1名、後2名死亡という激しいものとなりました。




    1864(元治元)年6月5日のことです。
    (新暦は7月8日らしいです)





    映画やTVドラマでは

    祇園祭の日(または宵山)の事件として描かれていますが、

    実際は祭りの前々日(宵々山)だったらしいです。




    翌日から残党狩りや探索等で

    町はかなり物騒な気配だったと思いますが、

    山鉾巡行などの神事は滞りなく

    例年通り行われたそうですから

    やはり京都人てすごいなと思います




    その池田屋は現在はパチンコ店で脇に碑があるのみです。

    その前はケンタッキーの店、それ以前は確か

    「池田屋ビル」という飲食店の雑居ビルでした。




    なんか暗い感じのビルでしたよ〜 ←多分に先入観からだと…(^^;)




    『池田屋事件』は歴史的にも比較的大きな事件なので

    高校の歴史の教科書にも載っていましたよね