新選組版「今日は何の日」です。
7月27日は「京都守護職」が設置された日です。
以前から京都所司代が町の治安維持にあたっていましたが、
当時の京の治安はすこぶる悪く、それだけでは手におえず、
幕府は京都所司代の上層機関として京都守護職を設置しました。
その日が1862(文久2)年7月27日でした。
その京都守護職になったのは会津中将松平容保様。
最初は彦根藩なども候補に上っていたようですが、
最終的には黒船来航で浦賀の警備にあたっていた際の
誠実な仕事をかわれて会津藩のご使命となったようです。
でも情勢を見れば誰もこんな仕事を引き受けたくはないですよね!
もちろん会津藩も固辞しましたよ。容保さんは病弱でしたし。。。
でも結局引き受けてしまいました。
なぜなら
容保さんは会津に養子に入った際、
会津藩の家訓をきっちり叩き込まれていましたから。
会津松平家の祖・保科正之は3代将軍家光の異母弟です。
正之は家光にすごく信頼されていて、
正之自身も家光に恩を感じていたようです。
そして
「大君(将軍家)を第一義として忠節をもって勤めよ。
もしこれができないのなら自分の子孫ではないから、
家臣たちも従うな」
という家訓を残したのです。
幕府は再三固辞する容保にこの会津の家訓を持ち出し
説き伏せてしまったのです。
当時26歳の若さの容保は家臣たちを集めて
「義を第一に将来のことは考えず京都を死に場所としよう」
と覚悟を語ったそうですよ。
泣けますね〜。
もちろん家臣たちも感涙しましたよ。
松平容保は同年12月24日、家臣1000人を従え
京都守護職として堂々入洛。
金戒光明寺に入り、以降鳥羽伏見の戦いまで
その地で治安維持の指揮をとるのです。
就任の際に覚悟していたとはいえ、
戊辰戦争で京をおわれ、なおかつ
あのような会津の悲劇に襲われることまでは
さすがに想像はできなかったでしょう。
誠心誠意 帝や幕府に使えたのに、
賊軍呼ばわりされるなんて
相当無念だったに違いありません。
帝から頂いた御宸翰(ごしんかん=帝からの手紙)を
生涯肌身離さず持っていた気持ちもわかります。
容保さんのことをよく知らなかった頃の私は
「ただの病弱な殿様」くらいにしか思わず、
どちらかといえば好きではない人物のひとりでしたが、
彼のことを知れば知るほど好人物として感じるようになりました。
なにより実直な姿に感動します。
もちろん、今では大好きな幕末の人物のひとりです(^^)
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